人は死神になれるか。
去る12月8日。
試験期間も終わり、晴れて以前から気になっていた映画『ドクターデスの遺産』を観に行ってきました。
公開から1ヶ月。シネコンとは言え田舎の映画館で、いつ公開が終わるかハラハラしていましたが何とか観に行けて良かった…!
12月4日からは全国の上映劇場で、エンドロール終了後に剛さんと岡田健史くんが2人で登壇した大ヒット御礼ひたすらイチャラブ舞台挨拶(語弊)を4分にまとめた特別映像も流れていたので、観に行くのが遅くなって返ってラッキーでした。
綺麗なおじさんが綺麗な若者の真っ直ぐな激熱ラブラブラブラブラブ(以下略)ビームにひたすらパーテーション越しに打ち抜かれ続け、ドギマギしまくってる映像が観られて大変幸せな4分間だった…(*´ω`)ホクホク
その時の舞台挨拶の記事&お写真。いやタイトルよw
実際の特別映像では何らかの闇の力が働いたのか()剛さんの「岡田健史とBLやりたい発言」は全カットされており、私は久々に履いたヒールの高いブーツを脱いでスクリーンにぶん投げてやろうかと思ったんですけどまぁそれは良いとして。
うんそうだよそれは良いんだよ、別に私は剛健(語弊)の話をするために睡眠時間を削ってカタカタキーボードを叩いてるわけじゃないんだよ、いや綾野剛の話はしたいしいずれするけれども!?!?!?(あ、するんや)
『ドクターデスの遺産』は総じてなかなか考えさせられると言うか、鑑賞後の余韻がもの凄い作品で。
色々悶々とした上で長年自分の中で出なかった問いに自分なりの答えが出たので、備忘録としてここに投げておきます。
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まず私がこの作品を、映画館に足を運んでまで観に行こうと思った理由は3つ。
1つ目は今年9月に引っ越して、元居た超絶ド田舎(直球)の実家に比べてシネコンが大幅に近くなったため、映画鑑賞に対するハードルが下がったから。
今まではその遠さから、どうしても映画館をアミューズメントパーク扱いしてしまい、映画館での映画鑑賞をまるで一大イベントのように感じていたんですよね。だから観に行く映画も割と「映画館ならではの迫力を感じられる」内容に限定されていたのですが、これではダメだなと。
映画ってもっと、学校の図書館で背表紙が気になった本を手に取るような、そんな感覚で観に行くものなんじゃないかと思い、普段は映画館にまで足を運ばないような内容の本作品を選んだのです。
2つ目は、日頃から私の煩悩と駄文に溢れるTwitterを生温かい目で見守って下さっている方はもうご存知かと思いますが、推し俳優に綾野剛が加わったから。
今まで自分の中での知名度は高いながらも、実はお芝居をちゃんと見たのは『亜人』くらいで、ドラマ1クール分の剛さんのお芝居をガッツリ見たことが無かったんですよね。
しかし私は出会ってしまったのだよ、伊吹藍に。(冴えわたる太字)
MIU404で初めてドラマ1クール分のお芝居を目の当たりにし、「何それ綾野剛ヤベェ」という全語彙力を喪失した感想と共に剛さんをめでたく推し俳優に加えた私は「もっとこの役者の芝居が見たい」という欲を出し(通常営業)、1,100円を払って劇場に足を運ぶこととなったのです。
あ、言わないで。大学生は1,500円だろとか言わないで。
金なし大学生は安い日に観に行くんだよ←
そして3つ目、これが今回の綾野剛と並ぶ最大の理由(並んでんのかい)だったのですが、
「自分が積極的安楽死の法制化について、確固たる意見を持っていなかったから」。
未視聴の方にざっくり解説しておくと、『ドクターデスの遺産』は
「終末期を迎え安楽死を望む患者に薬物を投与し、死を与える医師(通称ドクターデス)を連続殺人犯として警察が追う物語」。
これ実はめちゃくちゃタイムリーなテーマで、今年7月にこれに近い事件が現実に起こってるんですよね。ALSを患った方がSNSを通じて医師とやり取りを交わし、自身の殺害を依頼した事件がニュースで大々的に報道されていたのは、記憶に新しい方も多いのではないかと思います。(詳しくはこの辺の記事参照)
この時も「安楽死」というテーマを巡ってそれなりに議論が巻き起こっていました。ニュースを見て、「もし自分がこの患者の立場だったら」と考えた方も多かったのではないでしょうか。
ただ、このテーマを巡って議論が交わされるのは今に始まったことではないんです。
「積極的安楽死を法制化するべきか」というのは医療業界における永遠のテーマなのではないかと思われるほど昔から議論されてきたもので、私自身も将来医療業界に身を置く人間として、何度となくこのテーマについて思いを巡らせたことがあります。
始めは高校の頃、『高瀬舟』を読んだとき。そして大学の推薦入試でのグループディスカッション対策をしたとき。
やっぱり定番なんですよね、「安楽死について自身の意見を述べよ」みたいな。
その時は試験なので、一生懸命知識を詰め込んで他の受験生と渡り合えるようにはしていたものの、所詮は入試対策、自分のありのままの意見よりもハッタリかます方が先決。聞こえが良ければOKな世界(;´・ω・)
入試本番では一人前に知識をひけらかしつつも、実を言うとこのテーマに対して、私は長らく明確な意見を持てないままでいました。
そんな訳で予告編を見た時に、
「この作品を通して何か自分の中で安楽死に対して確固たる意見を持つことが出来るのではないか?」
と微かに期待を抱いたわけです。それが世論と同じだろうと違っていようと、議論が交わされていることについて自分なりのしっかりとした意見を持っておくのって大事だからね。
そういう理由もあって、今回私は『ドクターデスの遺産』を観ることとなったのです。
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ここからはゆるっとじわっとネタバレを含むので、まだ観ていない、これから観たいと思っている方はご注意下さい。
また、ここで書いていることはあくまで一個人の意見を整理したものです。同意しかねる方も沢山いらっしゃると思いますが、それもまた真だと思って下さい。
観る前は、作品内で積極的安楽死に対して、登場人物同士で何か意見が交わされるのかな?なんて思っていたのですが、予想に反して思いの外ストーリーは淡々と進んでいきました。
この作品のスタンスは、あくまで完全に日本の法律に基づいたスタンス、つまり、
「どんな理由であろうと人を殺すことは犯罪」。
そりゃそうだよね、刑事ものだもん。
勿論実際の法律でも、他者の積極的安楽死に加担した場合は「嘱託殺人罪」という殺人罪に問われます。
「さっきから積極的安楽死って言うけど、"積極的"ってなんぞ?」という方のためにここで補足しておくと、安楽死には「積極的安楽死」と「消極的安楽死」の2種類があります。
積極的安楽死は、薬物等を投与して患者を死に至らしめること。
消極的安楽死は、延命装置を外す行為等により患者を死に至らしめること。
後者は法律により犯罪でないことが認められていますが、前者に関しては現行法では犯罪になります。本作品でドクターデスが行っているのは、前者の方、つまり殺人ということになるわけです。
さて、話を戻しまして。
捜査一課の刑事犬養はバディの高千穂と共にそのドクターデスを追うのですが、彼の考えも一貫して同じ。どんな理由であろうと人を殺すことは犯罪であり、ドクターデスは善意を笠に着て人を殺す薄汚い殺人者と考えています。
ただ「自分の家族が病に苦しみ、"殺して欲しい"と言ったらどうするか」というドクターデスの問いかけに、その考えが揺らぐ場面も。
まあああぁぁぁぁここの剛さんの芝居がピカイチ最高なのですが、それはまた別の機会に話すとして。
安楽死に対する作品のスタンスが現行法に基づいている上に、それについて何か具体的な議論がなされることも無いので、とにかく余白が多いんですよね。
観た人がいくらでも考え続けられる。
ドクターデスのような存在は必要悪なのか。積極的安楽死を嘱託殺人とする日本の法律は間違っているのか。「死にたい人を殺した罪」とは。
現に私も鑑賞後、シネコンのスーパーでちびっ子に怪訝な顔で見られながらあつ森のチョコエッグを大量買いしている時も、バスに揺られて帰宅している時も、お風呂に入っている時もずっと考えてました。あ、ちなみにチョコエッグはまだ開けてません。超楽しみ。
そうして考えて考えて考えて出た結論は、
「人が自分で死を選択出来る状態にあるうちは、その選択肢を与えるべきではない」
ということでした。
自分にとっては意外な結論だったかも。どちらかと言うと以前はぼんやりと「日本でも積極的安楽死を合法化してもいいのでは?」くらいに考えていたから。
私がこの考えに至る決め手となったのは、犬養の娘沙耶香が、ドクターデスに自分を手にかけることを依頼するシーンでした。
始めはドクターデスに従い死への道を歩もうとする沙耶香ですが、「やっぱりパパと一緒にもっと生きたい」と考え直し、犬養に電話で助けを求めるこのシーン。
このシーンを見て、当たり前だけどこういう可能性ってあるよな、と思ったんですよね。
人間の思考なんて感情と同じで不安定なものだから、例え今の自分が死を選んだとしても、3日後の自分が同じ選択をするとは限らない。3日後は同じ選択をしても、1ヶ月後はどうか。1年後、10年後、20年後は。
そう考えると、人間の選択ほど不安定で不確実なものって無いと思うんです。
人生は選択の連続で、人は毎日、毎秒沢山の選択をして自分の人生の方向を決めている。「朝何を食べるか」みたいな小さなことから、「将来どの職業に就くか」みたいな大きなことまで、全てが自分が過去にした選択によって成り立っています。
その中でただ1つだけ修正が効かず、全ての可能性を断ってしまう選択が、「死」なんですよね。
もしかしたら自分が死を選んだ翌日に、人生を一気に好転させるような出会いがあったかもしれない。例え難病に苦しみ人生に未来が無いと感じていたとしても、実際に未来が無かったとしても、せめて命尽きるまで精一杯生きることにしがみ付きたいと思うような出会いがあったかもしれない。
でも死を選んでしまえば、その可能性は全て消えるわけです。
確かに生きることは辛い。痛みに耐え、苦しみに耐え、悲しみに耐え、地を這うような人生を歩むことを思えば、その辛さから逃れる「死」という選択肢はまさにドクターデスが自称するような「救世主」のように感じるかもしれない。
しかし、人間は絶対に100%正しい選択をすることは出来ない。
そう考えると積極的安楽死を合法化することは、100%正しい選択の出来ない人間に、簡単で、楽で、それでいて100%選び直せない選択肢を与えることになるんじゃないか。
あのシーンを見て、私はそう感じたんです。
作品内ではドクターデスの主張として、「苦しい思いをして長く病と闘い続け、家族に負担を強いるくらいなら、生きる権利と平等にある"死ぬ権利"を行使してもいいはず」という考えが出てきます。
これは正直、分からんでもない。いざ自分がその立場に立たされたら、「自分の看病から家族を解放してあげたい」という気持ちになるだろうなとは思います。
でもそれでもやっぱり、人間は"死ぬ権利"なんていう大きすぎる権利を持つべきでは無いと思うな。それを持つには、人はあまりに情緒不安定で予測不可能で、弱い生き物だと思うんです。
世界中どこを探しても、明日何が起こるかは分かる人なんていない。分からないうちは、今生きているこの状況にしがみ付くのが、人間という弱い生き物に出来る最大限なんじゃないかな。
なんて、思ってみたり。
人は間違える生き物。だからどんな状況であれ、自分に対しても他人に対しても、 「死」を与える権限を持つべきではない。
人は死神にはなれない。その弱さこそが、人を人たらしめる所以なんだろうな。
先程「本作品には余白が多い」と書きましたが、ラストも何と言うか、すっきりしたようですっきりしない終わり方なんですよね。
最終的にドクターデスは殺人罪で逮捕されるわけですが、最後の方のシーン、拘置所で彼女は自分が今まで手にかけてきた人々が自分に対して述べた感謝の言葉を回想し、彼らに安らかな眠りを願うんです。
どんな罪に問われようとも、彼女がその罪を悔い改めることは無いんですよ。だってみんなから感謝されてるし。人の役に立ってるし。
高千穂の台詞「この事件、被害者ってどこにいるんですかね?」もそうでしたが、とにかく悶々として、その悶々とした感情を観た人が自分でゆっくり整理していくしかない、そんな映画でした。
テーマから考えるともう少し悲壮感に満ちたストーリーになったりもするのかなと思っていたのですが、実際は割と疾走感のある作りになっています。Alexandrosが歌う主題歌の『Beast』もかっちょいいハードロックだしね。
主演俳優贔屓無しで見ても、面白い作品だったように思います。
年の暮れに明転した劇場で悶々と考え込みたい方(そんな方がいるのかどうかはさて置いて)は、まだ上映しているようなので是非観に行ってみてはいかがでしょうか。